第1研究会第2期・中間まとめA●70年代同盟(日本支部)の総括

《4回大会から8期9中委まで》

2002年9月:文責:きうちたかし


●研究会報告「70年代同盟総括」の公表にあたって

 ここに公表する「研究会報告」は、2002年9月にグループ内部で報告・討論がおこなわれ、この内部討論にもとづいて2003年12月までに加筆・修正されたものである。しかも後半が文章化されていないことでも明らかなように、この報告はなお未完である。しかしそれをあえて公表するのは、この研究会報告が戦後第四インターナショナルの総括として公表された「第3回世界大会テーゼの検証」と一対のものと考えたからである。
 なお、わたしたちの70年代同盟の総括は『労働者の旗』創刊準備4号、5号、7号に寺岡衛の『70年代同盟 その綱領と組織』@〜Bと題した論考も掲載されている。今回公表する2つの「研究会報告」は、この寺岡の論考で触れている問題意識を継承したものでもあるので、寺岡の論考も参照されたい。

A】は じ め に

 同盟員による女性同志の強姦という深刻な女性差別事件を機に、70年代同盟が突きつけられた戦略的意識の解体という綱領的破産は、当初われわれが考えていた以上に深刻なものであった。
 ボルシェビキ・レーニン主義の組織原則をめぐる対立を契機に分派闘争が崩壊し、その後同盟が組織的に分解するという事態は、当初はわれわれに革命的前衛党にかかわる組織論の再確認を迫ることになったが、他方でそれは労働組合と革命的前衛の組織的峻別(分裂少数派組合主義への批判)し、これに基づいたプロレタリア統一戦線の形成(国鉄闘争における左派統一戦線の追求)など、主要に労働戦線における実践をつうじて同盟の破産を克服しようとするわれわれの組織活動の基盤にもなった。
 しかしその後10年におよぶ日本階級闘争の全般的後退は、より深刻な歴史的総括の課題をわれわれに突きつけることになった。
 それは、連合に収斂された総評民同のなだれうつ政治的解体と社会党の消滅にとどまらず、国労の最左派(協会・革同ブロック)と労働情報を含む左翼労働運動潮流が、労働戦線の右翼的再編に抗して担ってきた国鉄闘争において新たな展望を切り開けないままに混迷を深め、ついには闘争団を切り捨てる国労本部の堕落へと結果したことに象徴される現実が突きつけた「戦後左翼の総破産」とでもいうべき深刻なものであった。
 かくして70年代同盟の歴史的再検証という課題は、総評左派の戦略的再武装を実現できなかったわれわれ自身の限界という痛苦な自覚の上に、われわれに日本トロツキスト運動の戦略的意識の土台でもあった戦後第四インターナショナル総体の歴史的総括をも迫ることになったのである。
 昨2001年夏の研究会報告が、「資本主義の死の苦悶」(トロツキー)という時代認識を継承した第四インターナショナル第3回世界大会テーゼ「戦後帝国主義の没落」(パブロ)が、結局は戦後の第四インターナショナルをして戦後資本主義の歴史的進歩性をとらえることを阻害して、言い換えれば新たな資本主義論の再構築を阻む大きな要因のひとつとなり、いわば全般的危機論の根拠となって今日のインターナショナルの分散化を招いているのではないかとの提起をおこなったのは、こうした問題意識にもとづく研究会討論のひとつの到達点であった。
 したがって70年代同盟の歴史的検証は、この時代認識を問い直す総括の視点を踏まえて、70年8月の再建大会(日本支部第4回大会)以降の同盟の変遷や転換の検証をおこなうものとなったのだが、研究会での討論と集約における主要なテーマは、幾度かの転換にもかかわらず貫かれた「日本資本主義の全般的危機論」とでも云うべき《時代認識》の批判的検証と、この時代認識にもとづいた二重権力論や「権力のための闘争」など、70年代同盟を貫く《階級闘争論》全般の批判的検証とならざるを得なかった。

 ところで70年代同盟の《階級闘争論》について結論的に述べれば、それは第3回世界大会テーゼが定式化した戦後資本主義の全般的危機論とパブロのロジック、つまり「社会主義革命に不可逆的に発展する可能性をもつ様々な形態の革命」とか、大戦直後の「反帝国主義的大衆闘争」が「とりあえず利用できる既成の党に流入してこれを押し上げる」(第3回世界大会テーゼ)といったロジックを基盤にして、不断に急進主義的突撃を扇動する体系であったと考えられる。
 それは日本支部を「党建設者同盟」と位置づけ、主体形成の課題を不特定の未来に先送りする組織建設方針にも反映されていたのだが、この組織建設方針は、日本における社会変革の主体が獲得すべき意識(モラルもしくは歴史的任務の自覚)と、その意識の社会的基盤を具体的に検証することを「先送りする」ことで疎外した。それは例えば、「労働者は存在そのものが革命的である」といった類いの、階級形成のプロセスを無視するまったく抽象的で教条化された意識を同盟内部で再生産し、日本社会に根深く存在する女性差別に抗して男女間の平等な同志関係を生み出す「差別の現実との格闘」を阻害し、組織内女性差別の基盤を温存してきたと言って過言ではない。そしてもちろんそれは、女性差別問題に限られた同盟の「欠陥」ではなかったのである。
 とくに日本支部の場合は、同盟の主体的意識(モラル)を「すべてをただ無条件にトロツキズムから出発させようとするイデオロギー的な絶対的忠誠心」(第4回大会『同盟建設』)によって担保しようとしたことによって、「トロツキスト組織である同盟への忠誠心」を強要する権威主義的意識構造を固定化し、強姦被害者の女性同志たちが告発に立ち上がる際にも大きな心理的障壁を形成したとさえ言える。
 さらに6回大会で提起された「大衆の中へ」という「転換」も、こうした4回大会路線の根本的な批判的総括には踏み込めずに、いわば新左翼諸党派の堕落から身を引き離そうとする「戦術的転換」にとどまり、結局は地域や職場における大衆的基盤の形成=労働者大衆との結合に失敗する要因となった。たしかに同盟の活動スタイルは街頭の急進的デモから地域や職場における日常活動へと重点を移しはしたが、「イデオロギー的な絶対的忠誠心」が煽る無自覚なセクト主義と最後通牒主義が同盟員と大衆の溝を広げ、職場で孤立した同盟員の戦略的意識を解体することになったからである。
 かくして「権力のための闘争」として同盟の全力を投入して闘われた78年の三里塚開港阻止決戦以降、同盟はその「輝かしい勝利」とは裏腹に三里塚反処分闘争の多くは孤立のうちに手痛い敗北を喫し、「停滞的前進」と称する混迷に陥ることになった。組織内女性差別事件の発覚は、この混迷に追い打ちをかける最後の一撃となった。

B】日本支部の再建と3つの思想傾向

 1967年10月の佐藤訪ベト阻止闘争を契機に現れた日本の急進的学生運動の高揚と、翌68年5月のフランス・パリの反乱という情勢のもとで、組織的分散状況にあった第四インターナショナル日本支部は、70年8月に再建大会(日本支部第4回大会)を開催した。
 この大会の主要な目的は、日本ではじまった学生反乱に速やかに組織的に介入し、第四インターナショナルの隊列に若きカードル群を獲得することであったが、そこに提起された戦略論(極東解放革命論)は、第四インターナショナル第3回世界大会で採択された『来るべき対決』の時代認識、つまりプロレタリアートに圧倒的に有利な戦後の国際階級闘争の力関係のもとで、世界資本主義の新たな盟主として登場したアメリカ帝国主義は、孤立を脱した労働者国家群と世界に広がる植民地革命に対する反革命戦争に訴えるであろうという展望を、朝鮮とベトナムをふくむ東アジアに適用しようとしたものだった。その意味で極東解放革命論にはらまれた植民地革命の過大評価や左翼中間主義者が牽引する急進的街頭闘争への自己解消の傾向などは、いわゆるパブロ主義の正当な継承という側面をもっていたのである。
 当然のことだがこうした戦略論に対して、パブロ・キャノンの国際論争でも焦点となったプロレタリアヘゲモニーの軽視や資本主義中枢における革命展望の欠如があるとする批判が、当時も現れた。こうした極東解放革命論への批判的傾向は、後に新左翼労働運動と旧高野派のブロックを基盤にして「労働情報」結成のイニシアチブを握ることになる傾向であったが、その戦略論は独自の左派勢力を基盤に、つまり当時は新左翼労働運動の諸成果を基盤とする独自のイニシアチブを形成し、当時はなお戦闘的労働組合主義としてあった総評左派勢力とのブロックによって、社共に替わる左派労働運動潮流の形成をめざすものだったと要約できるだろう。
 そしてこの2つの傾向とは別に、70年を前後する急進的大衆運動の高揚を、「改良主義の破産が進展して革命的勢力が台頭する時代」として捉えようとした、三多摩社青同運動を継承する傾向があった。
 この70年代同盟の3つの傾向はその後、それぞれの局面における70年代同盟の変遷に様々に関与することになるが、いずれにしても3つの傾向は、第二次大戦後の世界資本主義を「社会主義革命の前夜としての帝国主義の時代」(レーニン)の延長線上に捉える時代認識を共有していたのは確かである。つまり70年代同盟では、60年代の日本資本主義の経済成長を解明しようとする現代資本主義分析の必要性や、新たな資本蓄積様式としてフォーディズムを捉える構造改革派の提起などは、ほとんど検証にも価しない提起として黙殺されることになった。
 それはある意味で過渡的綱領にある「資本主義の死の苦悶」という時代認識を頑強に堅持しようとするトロツキーの弟子たちとしての自負であり、スターリニズムとの死闘をボルシェビキ・レーニン主義の復権をかけて闘いぬいた第四インターナショナルの革命的伝統を戦後にも継承しようとする頑ななまでの態度であり、第4回大会の『同盟建設』が提起した「イデオロギー的な絶対的忠誠心」を受容する意識でもあった。
 だが戦後の世界資本主義の経済的再生とこれを基盤にした進歩的諸成果、すなわち資源と市場の囲い込みである大英帝国経済圏の解体と旧植民地の民族的独立の達成、あるいは資本主義国家による労働基本権の擁護やその保障と拡充などが、国際プロレタリアートの階級的団結の基盤を確実に掘り崩しつづけていた。
 なぜなら、内乱に転化すべき帝国主義戦争を越えてまがりなりにも自由貿易体制が組織され、ヨーロッパの狭隘な国境と衝突していた資本主義的生産力は新たな生産性の向上を伴って新しい発展を経験し、これに伴う賃金の上昇がプロレタリアートの窮乏化論を押しのけて資本と労働者の共存共栄論が台頭し、それとともに抑圧されてきた民衆の諸権利の承認までが自由主義経済圏というアメリカ資本主義の支配圏において、およそ四半世紀にわたって労働者に提供されることになったからである。
 しかし戦後の第四インターナショナルは、こうした資本主義の現実を、戦後資本主義の詳細な分析をすることなく一時的で例外的な状況としてとらえ、資本主義の経済的政治的破綻がほどなくはじまるであろうとの予測に固執しつづけてきた。それは結局のところ、「社会主義の前夜としての帝国主義の時代」と「資本主義の死の苦悶」をドグ化した戦後資本主義の全般的危機論の呪縛だったのである。

C】日本支部5−6回大会の転換と自主管理闘争

 ところが新左翼中間主義者が主導する急進主義運動に大衆的な反帝国主義闘争の可能性を見いだし、だからまたこれに「自らを一時決定的に解体・合流させる」(前掲『同盟建設』)ことで第四インターナショナルの大衆的再建をめざす第4回大会の路線は、ほどなくして重大な危機に直面することになった。
 70年3月のハイジャック事件、同年8月の早稲田大学での内ゲバ殺人事件、71年12月の土田警視総監邸小包爆弾テロと新宿ツリー爆弾事件、そして73年2月の浅間山荘事件などとして、新左翼中間主義者の堕落が顕在化したからである。偏狭な派閥抗争と街頭急進主義の混合物である「革命的暴力」が、内ゲバの応酬と不毛なテロリズムへと堕落し、大衆的な学生反乱の基盤を自ら解体しはじめたからである。
 トロツキズムの革命的伝統を防衛する必要に迫られた同盟は、こうした中間主義者の堕落と決別すべく中核派との政治ブロックを解消するが、72年1月の5回大会と73年2月の6回大会は、こうした同盟の転換=左翼中間主義との決別を確認して新たな戦略と戦術を提起する一連の大会となった。
 しかしながら71年から73年の期間は、新左翼中間主義の堕落が顕在化しただけでなく、戦後の資本主義にとっても大きな転換の局面でもあった。資本主義の全般的危機の展望に呪縛されたままの同盟は、こうした戦後資本主義の再編の局面の中に、新たな「資本主義の危機」という幻想を見いだしていくのである。
 71年8月、アメリカのニクソン政権は金とドルの兌換を公式に停止して戦後自由貿易体制の基礎となってきたブレトン・ウッズ体制の破綻が顕在化しはじめていたし、翌72年2月にはニクソンが突如訪中して米中国交回復が実現し、73年1月のベトナムに関するパリ和平協定の調印への道筋がつくられ、極東解放革命戦略が打倒の対象にしていた「米日韓反革命体制」は大きく揺さぶられた。さらに日本でも72年1月、沖縄の施政権返還を確認する日米首脳会談が行われ、同年の春闘では交通ゼネストが展開され、4・28沖縄デーは沖縄と本土を貫く大衆的高揚を見せるのである。
 かかる情勢を背景にして同盟6回大会は、新左翼中間主義との決別という5回大会の転換を「大衆の中へ」という新たな組織戦術として定式化した。
 大衆を獲得することを通じて権力を奪取するという、コミンテルン第3回大会をアナロジーした6回大会の路線は、最も突出した急進主義運動の担い手から、労働組合などでの日常的活動を通じて大衆との結合を追求するという点では大きな転換を意味していた。だがそこにはなお、戦後資本主義の「死の苦悶を追撃する」プロレタリアートの大衆的戦列の形成という戦略的思考が貫かれていた。
 情勢は「前革命的」ではないまでも「米日韓反革命体制」は大きく動揺し、大衆闘争の攻勢は、学生から青年労働者にその主体を変化させなながらもなお持続しており、沖縄闘争の「本土上陸」にも刺激されて発展する「健康な急進主義」が組織建設の客観的基盤の「成熟」として想定され、日本共産青年同盟の結成とあわせて党建設者同盟から革命的前衛党への飛躍が「日程にのぼる」のである。
 被差別部落や障害者の差別に反対する社会的課題への取り組みも、「健康な急進主義」と結合する闘いと位置づけられ、60年代の高度経済成長の恩恵から取り残されてきた日本社会の下層に位置する民衆の改良的要求の側面は、「あらゆる改良的成果は、革命闘争の結果としてのももたらされる」とか「ささやかな改良的要求さえ、資本家権力の打倒によってしか実現しない」といったドグマによって軽視もしくは無視された。すべては革命的権力の樹立にむかう必然性をはらんだ大衆的決起として、つまりは「社会主義革命に不可逆的に発展する可能性をもつ様々な形態の革命」(第3回世界大会テーゼ)と定式化されたパブロのロジックに沿って説明されたのである。

 そうしたなかで重視されることになったのは、70年代初頭のオイルショックを契機に全国で増加した中小民間企業の相次ぐ倒産と、その争議戦術として各地で展開された自主管理・自主生産闘争であった。当時、同盟の自主管理闘争に対する認識は単なる争議戦術という以上に、前革命的情勢という過渡期に現れる二重権力の萌芽であり、プロレタリアートの権力を準備する重要な兆候とみなされたのである。
 なかでも73春闘で宮城県委員会が組織したゼネスト貫徹の地域共闘の挑戦は、没落しつつある改良主義の統制を食い破り、職場の闘争を基礎にして地域における二重権力状況を意識的に追求した闘争として評価され、全国的にも各地の自主管理闘争への支援運動が集中的に展開されることになった。

D】8回大会路線の背景=1973年〜75年・戦後資本主義の再編

事実上、急進主義への回帰を決めた8回大会の情勢認識は、戦後「反革命体制の動揺」と「大衆闘争の攻勢の持続」は「明白」であるというものだったが、この情勢認識の基盤になったのは73〜75年の自民党の党内闘争を中心とする政治的流動と、官公労の青年労働者を中心とした国民春闘の高揚であった。

 春闘や沖縄闘争などの「大衆闘争の攻勢」は現実だったし、第1次石油ショックが呼び起こした資本の危機感を背景にした保守勢力の抗争も激しくはあったが、70年代同盟の情勢認識の特徴は、この大衆的攻勢が革命的高揚に発展する可能性をもち、それは自民党政治の混迷を直接的に追撃するだろうとしたところにあった。そして後から考えてみれば現実離れしたこの情勢認識の背後には、「全般的危機論」と共に3つの傾向に「共通した組織建設をめぐる理解」が横たわっていた。
 たしかに6回大会の組織建設方針は、「党建設者同盟」という4回大会の組織建設方針を批判して「革命的前衛党」建設の追求を提起したが、それは他方で「革命党そのものを直接に建設しはじめるということは、もやは絶対に敗北のありえない絶対的に勝利を展望する革命の組織化にむけて最後的に着手することを意味する」(4回大会『同盟建設』)との認識を批判した訳ではなかったが故に、これを無自覚のうちに共有したままであった。つまり6回大会の党建設の提起は「勝利を展望する革命の組織化にむけて最後的に着手する」ことと同義になっていたのであり、だからまた情勢が「前革命的ではないまでも」革命的可能性がなければ、論理の整合性が失われるものだったのである。だがこうした思想的欠陥は、当時の同盟には無視された。
 むしろ74年6月参院選(戸村選挙)での「三里塚闘争に連帯する会」と「同労働者委員会」の形成は、「持続する大衆闘争の攻勢」を基盤とする全国ヘゲモニーへの跳躍台と位置づけられた
 ・74年11月、金権スキャンダルで田中が退陣し三木政権が成立し、75年4月にはベトナム革命が勝利し、東京と大阪には美濃部と黒田の革新知事が誕生した

そして75年5月の交通ゼネストから11月のスト権ストへと向かう総評官公労の一連の攻勢が、「全人民の急進化」路線(8回大会)の根拠になるのである

 そしてこの時期、同盟にとってもっとも重要な「大衆闘争の攻勢」は、75春闘が日経連の賃上げガイドラインに押さえ込まれる中で、旧高野派の流れをくむ全金港合同の地域闘争が唯一これを突破したことであった。
 しかも港合同には田中機械という自主管理闘争の拠点があり、企業内労組を超えて労働者の団結を組織する地域単一支部という組織形態もあった
 地域単一支部の下での自主管理闘争と、前年の参院選で形成された「労働者委員会」(新左翼労働運動)のブロックの成立は、労組活動家集団である全国労働者活動家会議(全労活)を越えて、大衆的労働組合に基盤をもつ、社共に代わる左派全国潮流=労働情報の創刊(全国ヘゲモニーの形成)に至る現実的基盤と見なされた

E】第8回大会(76年1月)と「権力のための闘争」《FI/No20》

 「全人民の急進化は明白」であり、「権力のための闘争」が日程にのぼりはじめたという情勢認識の提起

 しかも「全人民の急進化」を基盤とする「権力のための闘争」は、同年7月の田中逮捕(ロッキード疑獄)8月の三木政権と反三木挙党協の対決による政府危機によって現実となり始めた(ように見えた!)

 だが局面は暗転する。自民党政府打倒の大衆行動を組織し、激論の末に「社共政府」を要求する大胆なスローガンの提起にもかかわらず、政府危機は12月総選挙における自民党の過半数割れと三木退陣で急速に終息するのである。「持続する大衆闘争の攻勢」が政府・権力闘争へと直線的に発展しないことが明らかとなり、同盟は客観的には大衆闘争の攻勢の性格の再評価を迫られたのである

 ところがこの一連の過程の総括は、「全人民の急進化」と「権力のための闘争」という情勢把握は〃正しい〃ことを前提にして、「大衆の潜在的戦闘性」(大衆闘争の攻勢の持続)を引き出す全国ヘゲモニーの不在=いわゆる「姿なきヘゲモニー」論へと集約されるのである。「全般的危機論」にもとづいて「不断に急進主義的突撃を扇動」する70年代同盟の《階級闘争論》が、ロッキード危機の過大評価へと結果した典型

 こうした「総括」が大きな抵抗もなく同盟に受け入れられたのは、70年の日本支部再建大会(日本支部4回大会)で提起されたテーゼ(極東開放革命論)が、第3回世界大会で提起されたパブロの時代認識=戦後資本主義の全般的危機を土台にしていたことと関連して、いた。国際書記局の権威は、日本支部内部の権威主義的意識構造ともあいまって、なお絶大だったのである。それは5−6回大会で当面の組織戦術を大きく変更しえても、戦後資本主義の強力な経済発展という現実に照らして、第四インターナショナルの戦略的展望を根本的に見直すには至らなかった。
 その意味で日本支部第4回大会テーゼは70年再建同盟の底流として生き続け、その核心をなす「資本主義の全般的危機論」が、同盟構成員の意識を不断に急進主義的に扇動しつづける役割を果たしていたことを示す証拠である
 だが74年参院選(戸村選挙)でたったの1議席すら獲得できなかった勢力が、「権力のための闘争」を担うことができるという思考がかなり特異であったことは、振り返ってみれば明らかであろう。むしろ当時の自民党政府の危機は、いわば高度経済成長によって世界有数の生産力を手中にした日本資本主義が、石油ショックを契機に国際的役割に関する重要な転換を突き付けられた国際政治の再編の顕在化であった
・だが70年代同盟には、こうした動向を究明する動機が欠落していた。戦後資本主義は全般的に危機であるというドグマ化された展望が、戦後資本主義世界のダイナミックな再編成の可能性そのものを全く排除していたからである。
 かくして12月に成立した福田自民党政府が、田中政権によって放置されてきた国家プロジェクトである三里塚の開港を強力に推進しはじめたとき、三里塚闘争は「権力のための闘争」の政治的焦点へと転化するのである(もちろん主観的に)
 ・三里塚開港阻止は、帝国主義国家としては半人前の「半国家」日本を「大衆の潜在的戦闘性」に依拠して追撃する象徴的闘争に昇格し、77年4月に1万7千人を集めた鉄塔防衛現地大集会と、同年5月の大鉄塔の抜き打ち撤去に対する共青同と青年学生共闘による反撃が「姿なきヘゲモニー」の局面を突破する「健康な急進主義」が体現した「大衆的実力闘争の復権」と評価され、労働現場から切り離された青年同盟員で構成された党派行動隊という弱点、言い換えれば同盟のセクト主義と最後通牒主義(三里塚の「大義」を突きつけ、現地闘争に参加するか否かを問い詰める動員と選別)によって、職場や地域では必ずしも大衆的基盤が形成されていないという現実は見過ごされた

F】第8期9中委=1977年8月《FI:No25》

 急進主義的実力闘争への「再転換」、三里塚「決戦」への集中

 ・「全人民の急進化」を基盤とする「権力のための闘争」がなお正しい情勢把握と展望であるとすれば、ロッキード政府危機下で「大衆の潜在的戦闘性」を引き出せなかった核心問題=姿なきヘゲモニーの問題は、「権力と闘う」全国拠点として焦点化した三里塚闘争の「決戦」を担うことで突破されるだろう・・・・・

 ・こうした展望は、最終的には三里塚反処分闘争の全面的敗北によって挫折

むしろ同盟は多くの拠点とカードルを瞬く間に失い、被処分者による最後通牒的な三里塚反処分闘争は大衆との結合に失敗して組織的停滞に追い込まれた

G】まとめ−70年代同盟の時代認識と階級闘争論

 (1) 時代認識》「資本主義の全般的危機」の背後で

 ・アメリカのドル兌換停止はブレトンウッズ体制の破綻ではあったが、それはまた他方ではアメリカの国際収支の赤字垂れ流しの常態化と、余剰ドルが日本やドイツによるアメリカ国債の購入によって不断にアメリカに還流する今日に連なる国際金融システムのはじまりでもあった。世界的な貿易・金融再編にともなう国際政治の再編を「戦後資本主義の終焉の始まり」と誤認したとすれば、「全般的危機論」は見直されるべき

 ・ベトナム革命の勝利と米中・日中国交回復もまた、結果的には中国の改革開放政策への転換とアジアの政治的経済的の再編を促進し、いわゆる開発独裁から民主的体制への転換をへて、新興市場としての活況に道を開いた

 ・三里塚決戦と時を同じくした官公労の攻勢は全逓越年闘争を契機に後退し、以降はむしろ労戦右翼再編が加速された(総評左派の歴史的限界の最初の露呈)

 ・しかも労戦右翼再編の基盤となった日本経済の80年代の好景気は、この時期に「構造的不況業種」の淘汰と再編によって準備された

 (2) 階級闘争論》資本主義の全般的危機論と急進主義の扇動

 ・二重権力の萌芽としての自主管理闘争は、革命的権力奪取によってのみ本質的な突破口を見いだすことになるが、労働者の民主的諸権利を容認できる経済的基盤を獲得した戦後資本主義体制のもとで、立ち遅れた職場秩序やシステムに対する改良的な自主生産運動が成立する余地はなかったか

 ・港合同の右転換の基盤は、「権力闘争の萌芽としての自主生産闘争」という主観的展望と、現実の資本主義経済の強固さという客観的条件の矛盾がつくりだす圧力ではなかったか

 ・少なくとも86年の国労修善寺大会以降に労働情報と接点をもった自主生産運動の多くは、二重権力というよりも倒産に抗する労働者の生活防衛戦術であった

*こうした意味で70年代同盟の自主管理闘争の理論は、20世紀初頭の工場占拠→自主管理→権力奪取という歴史的経験を、現代資本主義の分析を欠いたまま適用(ドグマ化)したのではなかったか

 (3) 日本支部の過去の論争(解党主義論争)・その遺産と教訓について【補足】

急進主義への自己解消(旧ICP)と、FI早産論(旧社通派)の残映について


研究ノートtopへ 次を読む hptopへ