序章 戦後民主主義の国際的考察から明らかになるもの

■私はなぜトロツキズムの全面見直しに着手したのか

 私がトロツキズムに基づいて新しい革命党を作ろうと活動を始めたのは1958年である。それまでの私は戦後の革命的主体は共産党であると考えて入党し活動をしていたが、1950年の国際派と所感派の分裂から六全協までの過程、すなわち共産党分裂から軍事路線に至る破綻と六全協を通じて、この党の綱領的、理論的破産を実感した。そして、1958年にはその総括を通じてトロツキズムへと転換したのである。
 それ以来、50数年が経過したが、ソ連の崩壊や東欧の市場社会への転換、中国やベトナムなどの市場社会主義というか国際市場への吸収など、世紀末における新たな歴史的転換を見て、これまで維持してきたトロツキズムについて根本的に再検討しなければならない立場に行きつかざるを得なかったのである。
 それは私にとって、思想的敗北であった。そして、この個人としての思想的敗北は、左翼の歴史的敗北と一体である。そのように総括しなければ、自己の再形成も歴史の変革主体の再形成もあり得ない。そのような観点から、20世紀の左翼はなぜ敗北したのかについて自己の主体的な再建をかけて見直し、組み立て直そうとした。むしろ、そのように問題を立てざるを得なかったのである。
 2006年に出版した『戦後左翼はなぜ解体したのか』は、主として日本における50年間のトロツキズム運動の実践を、戦後史の過程と重ね合わせる中でどのように見直すのかを主要なテーマとしていた。すなわち労働運動を軸にしながらその過程を総括したものであった。

■戦間期の構造と戦後民主主義

 その上で、『戦後左翼はなぜ解体したのか』の基軸をもう一度国際的な視点からとらえ直してみると、基本的には前期資本主義と後期資本主義の相互関係の中で日本における戦後史の流れを考えなければならない。その前提として今回は国際的な総括を試みた。とくに前期資本主義から後期資本主義に至る過渡期である戦間期(第1次世界大戦から第2次世界大戦に至る時期)を分析する中で、その危機の構造、あるいは新しい時代の構造をとらえ直そうとしたものである。
 すなわち、戦間期の国際的な構造が、日本における戦後史の運動の流れの中でどのような意味を持っていたのかをもう一度振り返ってみなければならない。とくに戦後民主主義とは何であったのかを考えた場合に、そのことが欠かせないと痛感していたのである。
 後期資本主義のアメリカが危機にある前期資本主義のヨーロッパに楔を打ち込む。ある意味ではヨーロッパ救済の方法として楔を打ち込む構造を私はワイマール体制と呼んだ。ところがアメリカは、ヨーロッパの先進資本主義国を救済したにもかかわらず、それを市場として獲得することができなかった。ヨーロッパの先進資本主義国を後期資本主義の大量消費市場として獲得するには矛盾が激しすぎたのである。その結果、アメリカは過剰生産の構造に陥り、29年恐慌というバブル経済の爆発に遭遇することとなった。
 しかし後期資本主義のアメリカは、その危機をニューディール政策で乗り切ろうとした。すなわちアメリカはニューディールという形で国内においてワイマール体制を引き継ぎ、その民主主義的な方法でトロツキーが展望した労働者党の基盤さえ解体して、資本主義的攻勢を第二次世界大戦以後に全面展開する体制を作り上げた。これが後期資本主義の第2段階の展開であった。
 日本における戦後民主主義は、財閥・軍閥の解体、農地改革、男女平等、労働組合の育成など、占領下の民主主義が出発点になっているが、それはワイマール、ニューディールを引き継いだ後期資本主義の第3の段階として展開されたものである。このように見てくると、後期資本主義とはワイマール、ニューディールから戦後民主主義に至るまで、ある意味では前期資本主義に対する革命として展開されてきた流れなのである。
 だからこそ、戦後民主主義をもたらした占領軍に対して、共産党ですら解放軍と言わざるを得なかった。すなわち後期資本主義は、前期資本主義の前近代的構造を解体して新しい民主主義的な方法による資本主義を展開した。戦後民主主義とは、そのような国際的な流れ、後期資本主義が前期資本主義を解体して自らを世界化していく過程の一環として、日本に貫徹された形態だったのである。

■後期資本主義とその社会的土台としての反ファシズム・レジスタンス闘争

 第2次世界大戦後、ヨーロッパで後期資本主義を受け入れる基盤は、反ファシズム、反ナチのレジスタンス闘争にあった。ヨーロッパにおける後期資本主義の導入は、ナチズムを解体して勝利したアメリカ軍による上からの改革として展開されただけではなくて、レジスタンス闘争として社会的に存在した人民主体の闘いが、それに合流していったのである。そこにヨーロッパの特徴があると私は考えているのである。
 もちろん反ファシズム、反ナチのレジスタンスの闘いは、アメリカの後期資本主義だけではなくて労働者国家ソ連の全面的な戦争への介入とも連動して展開され、前期資本主義の危機の形態であるファシズムは打倒された。その結果、ソ連の側に獲得される流れも作り出され、ベルリンの壁を軸にして東欧と西欧による東西対立が生み出されたのである。
 そのような冷戦構造、東西の対立構造を生み出しながら、上からの改革としての国有化計画経済とフォーディズムにもとづく大量生産・大量消費のどちらに有利に、レジスタンスの闘いのエネルギーは働くのか、それをめぐって戦後革命の攻防がなされた。その結果、先進ヨーロッパにおけるフォーディズム側の勝利として力関係が固定していくことになったのである。
 いづれにしても、ここでの重要なファクターは、レジスタンスという大衆の側の主体的参加の問題である。ヨーロッパにおける戦後民主主義は、上からの政治国家的変革だけではなくて、大衆による社会的あるいは文化的変革、市民社会の進化という要素を伴っていたのである。
 それに対して、日本の戦後民主主義はどうだったのか。日本における天皇制軍国主義への人民的抵抗は1930年代で完全に解体され、“獄中18年”と言われたごく少数の抵抗者が、獄中に長期にわたって封じ込められる以上のものではなかった。大衆は天皇制=軍部支配に敗北したというよりも、その軍国主義的な扇動に吸収されてしまったのである。
 この構造がヨーロッパと日本における戦後民主主義の決定的差異を作り出した。今日の後期資本主義の衰退期に現れた壁、閉塞感などの日本における困難さは、戦後の民主主義の作られ方、その大衆主導の構造の決定的差異が重大な要因となっているのである。われわれはこの困難さを、論点として解明しなければならないと思うのである。

■戦後左翼の受動性と今日の閉塞状況

 GHQによる上からの戦後民主主義の導入は、日本においては挫折と反省なき変節として吸収されていった。その意味で敗戦後の日本はニューディーラーたちの一種の実験場であったともいえる。日本をフォーディズム的資本主義の純粋な実験場として考え、日本国憲法の導入が図られた。もちろんそれは、日本の軍国主義的復活の要素を根底から解体するというアメリカの国家的利害と結びついていたが、一方では民主主義的実験という要素を持って軍隊放棄の憲法が提起された。
 しかもこの憲法は、下からの人民の意向や闘いを通じた抵抗の成果として登場したわけではない。戦後直後には共産党を含めて、日本国憲法に対して「国家は自衛のための軍事力を持たなければならない」という批判さえ存在したのである。
 そのように見てくると、日本における戦後革新=戦後左翼は受動的にしか対応できないという関係にあったことが明らかとなる。ヨーロッパの場合は旧ユーゴスラビアのパルチザンの抵抗が典型であるが、フランスやイタリアにしてもレジスタンス闘争が戦後民主主義を大きく規定していった。そのような力をヨーロッパでは持っていたが、日本にはそれがない。この差異は戦後社会に何をもたらすことになったのかを解明してみなければならない。
 今日の後期資本主義の行き詰まりは日本において、大衆の行き詰まり感、閉塞状況として存在している。そのような壁を打破するための苦闘を解明し、それを突破する道筋を作り出そうとするならば、戦後民主主義の在り方の中に、その問題点を明らかにしなければならない。能動的であったのか、受動的であったのかの戦後民主主義の在り方の差異が、今日の状況を大きく規定していると思うからである。

■観念論的な左翼知識人と前近代的共同体の枠内のブルーカラー

 そこで、戦後知識人の在り方を改めて検討すると、民主主義や市民社会に対する西欧モデルにもとづく観念論的把握、あるいは自己完結的な知識人社会の中だけで通用する論理の組み立て、このような戦後知識人の流れの中で、戦争責任論をめぐる摘発運動が活発に展開された。
 ところが圧倒的多数のブルーカラーは、前近代的な社会的基盤の上に戦後民主主義を受け止めた。労働の関係でいえば、労働組合の土台となったのは戦中の産業報国会という形で形成された家父長的で前近代的な労働社会が母体となっており、天皇制軍国主義の国家体制は産業報国会を1つの社会的基盤として支えられていたのである。もちろん戦後は制度としては解体されたが、そこで蓄積された熟練労働者層を軸とする労働社会の技能と共同体の力が、戦後経済復興の基盤を形成したことは確かである。ブルーカラーと呼ばれた圧倒的庶民の構造は、そのようなものだったと思う。
 戦後直後の経済は配給体制を伴う統制経済のもとにあったから、戦前・戦中から引き継いだ共同体は経済運営や日常生活にとって重要な基盤であった。戦前からの共同体を戦後社会に引き継ぐことによって、配給システムをはじめとする生活機能が有効に発揮されたのである。同時に、そのような共同体のヘゲモニーは熟練層=親方が握っていた。親方は年功序列の枠組みが前提であり、当時の生産基盤は熟練労働によって成立していた。親方である熟練労働力の年功者が新しい世代の職能=技能教育を行っていくのである。家族共同体、地域共同体、職場共同体などにしても、叩き上げの熟練労働者が新しい世代を手とり足とり教育(新世代からすると見よう見まね)しながら、年功的秩序(家父長支配の基盤)を作り出していった。
 戦後の経済復興過程では、社会=職能=生活の年功秩序が共同体として引き継がれ、戦後民主主義の個的自立、自由(権利意識)が集団主義へと埋没していくことを意味した。戦前からの親方日の丸の共同体構造を戦後も集団主義として機能させるということによって戦後民主主義と接木し、家父長的、親方的な秩序の構造、差別の構造をそのまま温存させて、戦後社会における経済復興、産業復興の基盤にしたのである。

■知識人運動の典型を示した読売争議

. このブルーカラー社会の構造が戦後における潜在的ヘゲモニーだったと思う。その構造の上で共産党に結集した知識人層の急進的闘いが展開された。その典型的事例が読売新聞の争議における知識人とブルーカラーの対立関係である。読売争議の場合、編集部と労働組合幹部は一体的構造にあった。すなわち知識人である管理者層がヘゲモニーを握って読売闘争を自主管理闘争として展開し、社主である正力の戦争責任を追及した。
 戦前の新聞があまりにも露骨な戦争協力の姿勢であったがゆえに、その自己批判を含めた戦争責任追及が正力たちに向けられた。そして正力は米占領軍によって公職追放になったから、争議は全面勝利で推移した。ある意味で読売では占領軍の正力追放の力学に乗って争議が高揚していくのであるから、印刷工をはじめとするブルーカラー層も初めから闘争に反対していたわけではない。ところが自主管理闘争としての読売争議が行き詰っていく過程では、争議の観念的な“左傾化”、政治主義的“急進化”に抵抗して現実主義的な産業復興、すなわち旧来の秩序の枠組みの中で収拾しようとする第二組合が、ブルーカラー層を中心にして登場してきたのである。
 戦後直後の産別会議の闘争では、管理者層を中心とした知識人、ホワイトカラー層の闘争に対してブルーカラー層は保守的に対応し、闘いの行き詰まり状態の中で繰り返し第二組合を登場させてきたのである。そして、この第二組合が多数となり産別会議が凋落していく過程をたどった。
 このようにして前近代的社会構造を温存させ引き継いだ結果、戦後においてはそれが産業復興・生活復興の安定基盤となると同時に、民主主義深化の保守的阻害要因となって機能した。しかもその保守的安定基盤は、熟練労働者を軸として戦後の労働組合再建(総評)の潜在的ヘゲモニーになっていくのである。こうして温存された前近代的な労働社会の構造は民主主義の空洞化をもたらすと同時に、左翼知識人による思想活動の自由な介入を集団主義的な組織運営の排他性の壁によって不断に跳ね返すこととなる。
 なぜなら、企業組合として組織された日本の労働組合の閉鎖性のもとでは、集団主義(幹部集団の承認の枠)としての思想は成立しても、個人単位の思想活動は組織的撹乱者として排除する構造を生み出してきたからである。それは単に幹部による締めつけだけではなく、労働者大衆の中にある集団主義的異端排除の論理の無自覚な貫徹によるものなのである。
 戦後民主主義の空洞化の構造は、まさにこのように知識人層とブルーカラー大衆の運動と意識の乖離と分裂をもたらす。一方、この乖離の結果は知識人層の理論が自己完結のドグマ化と観念的急進化の世界にはまり込む危険性を持つこととなる。

■戦後知識人と全学連、急進主義

 下からのレジスタンス闘争という形で、知識人層と現場のブルーカラーの闘いが統一的に結合することがなかった日本では、建前として抽象化を深める民主主義意識と前近代的社会を基盤とした意識の温存という接ぎ木構造によって戦後民主主義のモザイクが成り立ったのである。そしてこの構造こそ、ヨーロッパの戦後民主主義とは決定的に異なる点だったと思うのである。
 その結果、知識人層の民主主義運動は生産者、生活者の大衆的基盤と有機的に結合する構造を獲得できず、ますます観念的な願望に陥っていくことになった。これは共産党系知識人、すなわちマルクス主義的知識人だけではなくて民主主義的、市民主義派知識人も含めた構造であり、その双方ともに大衆運動と有機的に結合した経験は乏しいものであっただろう。(そのような知識人層の観念左翼的流れの問題は、『戦後左翼はなぜ解体したのか』の大河内一男・高野実論争でも指摘した点である。)
 ところで、そのような左翼知識人の願望に物質的基盤を運動論的に与えたのが全学連の存在であった。唯一、全学連だけが知識人層の理論的展開を観念世界の領域にとどめず、実践的な方針として体現していったからである。しかしそのことは同時に、全学連がブルーカラーの運動、労働運動から離反していくことを意味した。
 そうはいっても60年安保に至る全学連の運動は、労働運動との間に橋渡しする要素がなかったわけではない。砂川闘争から勤評闘争に至る運動の構造は、両者の運動の結合と思想的接近の可能性を持っていた。だが、安保闘争を通じた運動の諸党派への分解=衝突が労働運動との離反を加速させたといえる。
 砂川闘争では総評の高野派が平和問題懇話会(雑誌『世界』を拠点として全面講和を展開した学者・文化人の集まり。実質的事務局長が丸山真男、同行動隊長が清水幾太郎)と一体となって闘いの陣形を作った。具体的には清水幾太郎が総評前事務局長である高野実と全学連の森田実との会談をセット、知識人層の学生運動と総評労働運動(とくに高野派がイニシアティブを握っていた東京地評)の結合によって、現地農民の砂川闘争を勝利に導いたのである。
 ここまでは日本の労働運動は高野派主導として知識人層との結合の可変的流動性を残したが、60年代でその可能性は終了した(『戦後左翼はなぜ解体したのか』第3部第2章「高野派の可変的流動性と複合的発展の可否」参照)。その後の総評は太田―岩井ラインに転換し、学生の運動は労働運動と決別を深め、急進化していった。(もう一つ、太田・岩井主導の総評の下で、向坂学校の弟子たちによる三池労働者との結合関係の在り方が何を意味していたのか、ここでは立ち入らないが十分に検討の意味があると思う。)
 60年安保闘争では全学連部隊が独力で国会に突入していく形態をとり、そのスタイルを引き継いだ全共闘運動も独力で大学を占拠した。すなわち、孤立した左翼急進主義運動としての独自展開を通じて、戦後民主主義のモザイクの構造を拒否して新たな闘いを作り出そうとしたのである。この流れの観念論的急進化が最終的に連合赤軍に見られる軍事力学に全面依存する運動論に帰結することによって自己消滅していくこととなったのである。これが戦後民主主義と戦後知識人層の(ブルーカラー大衆との分裂の社会構造が生み出した)矛盾の帰結だったのだと思う。

■資本との癒着の中に消えた職場闘争

 一方において、戦後復興過程における熟練労働者層のヘゲモニーはどのような形態をとって現れたかというと職場闘争としてであった。戦後復興過程における生産性のヘゲモニーを熟練労働者層が現場において展開していく。資本の側はこの能力に依存せざるを得ない。熟練労働者の生産ヘゲモニーは現場における年功的な共同体の管理運営権と結びつき、現場を動かす実質的な職制機能を持つこととなる。また経営の側もそれに依存する関係が基盤として成立する。この構造によって彼らは、経営に対する強力な交渉能力、発言能力を持ちつつ、現場の様々な要求を実現し獲得していく。このような力を発揮したのである。
 これを現場協議制や末端交渉権という形で獲得したのが、典型的には官公労の国労と民間における炭労であった。しかし現場協議制や末端交渉権は、現場で実質的職制機能を兼ねた労働組合幹部の経営側とのなれ合い的談合(癒着の構造)を背景とした、日常的な慣習・慣行として獲得したのであって、法制化や制度化された労働権として獲得し定着したものではない。現場の要求は慣習・慣行として取り込まれていくという形態で推移していった。これが後には何の法律的根拠もないヤミカラ(ヤミ手当、カラ出張)問題として法律的にたたかれ、世論からも孤立することになった。
 ここで問題にしなければならないのは、権利闘争は権利意識というよりも熟練労働者の生産性を支える能力に依存し、しかも法制的制度的に獲得するよりもある種の労使癒着関係に基づく慣習・慣行として定式化されていった点である。しかしその後、フォーディズムに基づく技術革新=オートメーション化によって、生産がたたき上げの熟練労働から機械にとって代わられ、反合=職場闘争の土台が解体していき、大幅賃上げと消費社会が作り出された。その結果、労働者の権利意識は消費的利害とその欲望の中に吸収されていったのである。
 そこに組み込まれた労働者大衆は、権利として獲得した現場協議制や末端交渉権を決定的に解体させられ、職場闘争が喪失していった。それは“職場闘争の喪失”というよりも、その闘争が労働者の人権=労働権として定着せず、要求が生産性の向上と結びつくQCサークル運動に見られるように、資本の側へと吸収されていったのである。
 問題は、職場闘争の成果が労働者大衆の一人ひとりの人格権を土台におく市民意識や権利意識へとなぜ結びついていかなかったのかである。
 それは第一に職場闘争が戦前・戦中からの熟練労働者層の親方的生産技能(生産性)と、家父長的職場秩序(団結権)に依存した闘いであったことの結果であり、第二に職場闘争の成果の背景が経営側の職場秩序をめぐる労働側への依存、それに対応した労働側の職制機能の代行と、それを通じた労使相互依存の構造的癒着の成立にあったこと。
 したがって市民社会的な自立や自由という問題、ないしは人権だとか人格権という権利意識が確立することなく、旧来的な共同体と戦後における高度成長の利益集団的なものが結合し癒着する構造の中で、ある意味では資本と癒着する構造、腐敗と癒着の構造を促進し、抵抗権の消滅をもたらしたのである。

■危機の深化を突破できない主体の受動性

 職場闘争のこうした解体を通じて成立した社会構造を日本的市民社会と呼ぶならば(私はその構造を第1期の市民社会と名付けてみた)、この今日の構造からは、新しい人権社会、人間社会の自立した構造は生み出されないのである。結局のところ戦後の市民社会は、癒着と前近代、利益集団という形態でしか成り立たなかった。新たな市民社会を土台にすることなしに次の危機に太刀打ちできないのが今日の局面であるが、いま述べたような日本的市民社会構造では、それを打ち破る主体に飛躍することができない。これが今日の日本における閉塞感、行き詰まり感を生み出し、脱出の方向性を見いだせない主体の危機の構造なのだと思うのである。
 前期資本主義を解体し、後期資本主義的改革を通じた戦後民主主義の成立の受動性が主体性の欠落をもたらし、そこから生じる腐敗と癒着の構造を突破することができない。ここに後期資本主義の危機が作り出す壁を突破できない要因があると思うのである。
 後期資本主義が危機に陥れば陥るほど、同時に主体も危機に陥っていく。すなわち敵の危機、後期資本主義の危機が深化すればするほど、それを革命する主体として登場せず、共倒れの構造の中にはまり込んでいくのである。この構造をどう認識し、それを根本から作り替える主体を再組織するかが最大の問題であると思う。

■2段階の飛躍を通じて登場する新たな主体

 結局のところワイマール体制、ニューディール、戦後民主主義と続く過程は、世界的に後期資本主義が前期資本主義を解体しながら国際的に組み立て直していく一環だと位置づけなおさなければならない。そして、その第2段として後期資本主義が組み立てられたときに、レジスタンスとして登場した下からの社会改革を基礎にした戦後民主主義なのか、一方的に上からの改革に受動的に対応するという形で前近代性を温存しながら、成長を癒着として吸収していく構造に陥るのか。この差異が問題であって、日本においてはヨーロッパの段階に到達するために2段階の飛躍が必要とされるのである。今日の非正規雇用労働者の闘いを軸とした新しい闘い、格差社会を突破する新しい闘いの主体は、そのような構造に向けた2段階の飛躍が要求されていると思うのである。
 民主党新政権の戦略的再生の中心であるべき菅副総理は、テレビ討論の中で司馬遼太郎の小説(NHKのドラマ)『坂の上の雲』の話を通じて、明治維新、第2次世界大戦敗戦、今日を日本近代の三大革命(改革)期として位置づける。にもかかわらず今日の「青年世代」の「雲」(戦略目標)に向かう無気力を嘆いている。だが彼は、今日の「雲」(戦略目標)の性格を前二者との対比で明確に語っていない。
 明治維新における戦略は、近代国家(富国強兵)建設にあったことは明確である。その結果がアジア侵略と天皇制国家、第2次大戦における敗戦へと帰結したのであり、それをモデルとして新世代に戦略的活力を求めても白けるだけである。
 では戦後はどうか。戦後の戦略は高度経済成長(豊かな生活)であった。その結果が今日のグローバリズムと過剰資本、過剰生産のバブル経済であり、格差社会の深刻化である。その再建を再度の「成長戦略」に求めても、新世代の戦略的活力を生み出すことは不可能である。
 必要なことは、今日の戦略的目標を前二者との対比において明確にすることである。それは新たな「社会革命」「文化革命」戦略のもとで、第2の「市民社会」(自主と連帯社会)を組織していくこと、その課題と実践を明確にしていくことこそ新世代に戦略的活力を与えることを可能にするだろう。
 戦後史において、そのように問題をたてるとするならば、前期資本主義の危機を国際的に組み立て直した後期資本主義がグローバル資本主義の段階で危機に陥った今日、その危機を克服する主体がどのように準備されていたのかをもう一度とらえ直してみなければならない。
 その意味で、国際的、歴史的背景の総括をもう一段深めて、分析する視点が必要である。とくに綱領的、理論的分析をより国際的視野でもってとらえ、位置づけ直して初めて、その意味合いが明らかになると思う。今回の著作はそのような観点を持ちつつ、『戦後左翼はなぜ解体したのか』を国際的な視野から理論的に深める形で提起しようとしたものである。